障害にも社会というものがあると、障害という人々には信念があるだろうと思う。知的障害者として出生しても、医師の判断で、途中で心身障害者、特に精神障害者に切り替えられれば、貧乏から抜け出し、金持ちや出世した人間に一歩近づいたと思えるのだろう。そういう程度が、障害という人々の社会だったと思う。どんな社会だって、人間として、というのも彼ら障害の口癖であり、「~とか」というのも曖昧な言い方をして確言を避け、「俺たち」のうやむや主義を政治と社会と他人のせいにして行くという、彼らの流儀だったと思う。そして、彼らの目的を遂げるための似非学問的蓄積が、慶應義塾の行動心理学者や、東大の美学の一部で、芸術社会学の権威でもなければできない新書版書きと辞典項目書きによって遂行されて来たことは、火を見るよりも明らかである。現状では、そのような人々は引退するか、死亡するか、少なくとも現役の学者ではなくなってきているので、その方面の分野が強化される傾向はないと考えられる。20年前に、こうした事態に遭遇したが、滅んでゆく者にムチ打つのではなく、今はかかわりのない人々が、そのような社会の構成分子だったことを、今は思い出すのに留めておこう。